真田 / 長野県上田市

真田 長野県上田市

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真田忍者の里

真田忍者は、武田信玄の時代から、忍者「三ツ者」として仕えていました。彼らは忍者の養成に力を入れ、当時信州と上州の地の忍者の数は1,000人を超えていたと言うことです。武田氏が滅んでからは、真田家に仕えて活躍します。
吾妻の地には修験道に関連する寺が52 か寺も存在しており、山伏の聖地でした。伊賀や甲賀が傭兵集団として、誰に支配下にも入らなかったことに対し、信濃や上野の忍者は武将に仕えていました。

上田城・真田昌幸

上田城は昌幸によって築城された平城です。真田昌幸は武田氏滅亡後に自立。 2度にわたる上田合戦で徳川家康軍を破りましたが、関ケ原の合戦で西軍に付いたため改易されました。 嫡子である真田信之が東軍についたため、上田など真田領を安堵されましたが、上田城は破却されました。

猿飛岩

真田の郷エリアにある全長4kmの大渓谷「角間渓谷」には、息を呑むような断崖絶壁とともに 奇岩・奇勝が多数あり、猿飛佐助が大岩を飛移って、早業を修業したという伝説があります。 近くには佐助幸村渇見の地があります。ここは猿飛佐助と真田幸村がはじめて出会った場所です。 佐助の人間離れした身体能力に驚き、その場で家臣になるよう導いたといわれています。

真田十勇士

江戸時代中期の軍記物や絵本、明治・大正時代に刊行された立川文庫で人気が定着しました。 真田十勇士の由来は、安土桃山時代の武将真田幸村につかえて、武勇をあらわしたという10人の勇士 (猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小助、由利鎌之助、海野六郎、根津甚八、望月六郎、筧十蔵)の総称です。

代表的な真田忍者

出浦盛清

真田昌幸の家臣で甲州透破の棟梁とされる。敵城へ配下の透破を潜入させる際、 先に自分が忍び入り探索し、配下の透破の報告の正確度を確認するといった逸話が残されている。

唐澤玄蕃

吾妻の地中之条町付近で修験の修行をし、「飛び六法」は、1.8mの高さを飛び上がったり、 幅3.6mを飛び越え、12mの高さから音も立てずに飛び降りることができたと言われています。

横谷左近

上野国横谷村(現・東吾妻町松谷)に由来し、同地にある雁ケ沢城を拠点にする忍者でした。 真田氏の側近で岩櫃城を巡る攻防で活躍しました。猿飛佐助のモデルとも言われています。

禰津神平

真田幸隆・昌幸親子に仕えた、忍者集団の頭領。禰津家は甲陽流忍術の家元で、 後に女忍者集団である「禰津流くの一」を生み出したといわれています。